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亀のこころは兎のこころ、兎のこころは亀のこころ


 特に気を遣っていることがある。私はある意味で気遣いの名人でもある。気遣いが全くできないガサツな男ですね!と、妻にはよくいわれるが、それでも尚、気遣いの名人を自称する者である。そして、それでも尚気遣わなければならないことがこの世の中にあるのである。何でもかんでも単純な時代は良かった。いや、ひょっとすると単純な時代などなかったのかもしれない。いや、あったのかもしれない。私自身が単純だったということなのかもしれない。しかし、少なくとも、特攻隊はお国のためという使命感と意志で一直線に進めばよかったということなのだろうし、ヤ○ザ屋さんはああゆう感じのオラオラな感じで押し進めればそれなりの成果を得ることができただろう。女性歌手はミニスカートで歌えば何とかなった時代があったかもしれない。しかしありとあらゆるものが複雑化した現在はそういうわけにもいかない。女性に対して女性にふさわしい対応をすること自体がすでに前提としておかしいのである。(少なくとも正解は「人としての対応」という言い方になるのだろうか?)いずれにしろ、行為と意志が一対一で対応している単純な時代ではなくなっているということになる。真面目な態度に対してもいろいろ煩い。真面目さは周囲の空気を暗くするだの、うつ病になりやすいだの、面白みに欠けるだの、ポジティブな側面がむしろ少なくなってきたのである。
だとすると、我々はどうするべきなのかというと、常に反対項の概念や物語を実行するというのがよいのである。仕事の際は遊びに行くように出かけて遊ぶように仕事をするのがよい。どこまで仕事中に遊べるのかが勝負になる。どこまでおもしろくできるかというのが仕事の醍醐味ということになるはずだ。大好きな恋人とデートをする際には、とにかくどうでもいい友達と街をブラブラする意気込みで臨むのである。飯は適当、ジュースは自動販売機で買って、そこらのガードレールに座って飲み、汚い居酒屋で食って飲めばいい。本気で臨まなければならないものほど、脱力してリラックスして臨むのがよいのだ。どうでもいい遊びに対しては本気で臨むのである。タモリさんの「真剣にやれよ!仕事じゃねぇんだぞ!」「仕事に遅刻してくるやつは許せるが、遊びに遅れてくるやつは許せない」が活かされる時代だ。
 ところで、これらは殆ど本気の気概で私自身が行っているところであるが、実際問題としてこの思想はいろいろなところで活用されている。武術での身体運用は特にこういった思想がある。いや思想というものではない。なぜなら実際問題として物理的に武術の身体運用の良し悪しに関わってくるからである。例えば、人間が腕で何かを抱え込むように押さえつけたり(逃げる人間を抱えて捕まえたり)する際には我々はむねの筋肉を縮めることになる。大胸筋と呼ばれる箇所で、ムキムキのボディービルダーが自慢するあの筋肉である。武術ではこの大胸筋を縮めはするが身体の感触としては表現が違う。表現として「背中を開く」という感覚を伴うのである。具体的には最長筋や僧帽筋を目一杯開くという感覚だ。人間が力を入れる際には筋肉を縮めて緊張するという動作をするのが理屈であるが、武術では感覚として背中を開く、つまり背中の筋肉を目一杯開いてリラックスさせるという感覚を持つ。このとき人間は最大限に身体能力、この場合でいうと腕で大きなものを抱え込むという動作に最大の力を発揮することができるのである。私は、ふざけているのではなくて、比較的本気でこれらの思想を信じている。

 様々な悩みがある現代という世の中でひとつだけ真実に近いことといえば、今行っている典型的な物語と逆のことを行うことがベストプラクティスである。ひどく焦っているときは、むしろ落ち着いて、落ち着いてゆっくりとできる機会に恵まれたらアホみたいに自分を追い込むのである。亀のこころは兎のこころ、兎のこころは亀のこころ。二項対立は人間の思考回路の中では最も単純化された、むしろ自動化された思考回路であるがゆえに、その発想をすぐに思いつくことができる。ジャック・デリダがいう二項対立に対して位階序列を転倒させるというわけです。だいたいにして私達はある事物に対して自動的に「よいことである」とか「わるいことである」と瞬時に決めつけることができる。これを利用します。蛭子能収さんのように神妙なお葬式で笑ってしまうというような発想です。実際にお葬式でお経を読んでいるシーンなんかは私も可笑しくてたまらなくなるときがあります。特に自分の父親の葬式では最大級に可笑しくなってきて、叩いている木魚の意味なんかを真剣に考え出すともう居ても立っても居られない状態になってしまうのです。逆にみんながふざけているときには、真顔でじっくりそのジョークを聞いてみましょう。本当におもしろくないのでびっくりするはずです。そしてあなたの部署の上司がおもしろくないジョークを言って皆が苦笑している際には、ノリノリでそのおもしろくないジョークに追従するのである。

 これらの二項対立に逆行する意志を持つことで何が変わるのか?実は何も変わらない。特に物理的に変わることは少ない。だが、これは物理的に変わること、物理的にすでに変化していることに気が付けない自分がいるという意味に等しい。おそらく何かが変わっているのである。

 二項対立における身体性とシンメトリーというちょっとそれっぽいタイトルで説得力のある話をしようではないか。限りなく私の偏った私見がある。右利きの人々(あるいは左利きの人々)は怠惰であるというテーゼである。身体の片方しか自由に使うことができないなんて怠惰以外にあり得ないという偏ったアイディアである。私達は少なくとも左右の手があり、その手を50%/50%で利用できるチャンスがある。それらの機会を均等に使えていない理由はいくつかある。第一に怠惰、第二に観念と思い込み、第三に何も考えていないである。右利きのあなたは、怠惰で思い込みから脱することができない阿呆で、最終的に何も考えていないということになる。ここで両利きの人々はやっと常識的且つ有能な人々で阿呆がから逃れた人々、阿呆から遊離した人々、阿呆からデタッチメントした人々ということになる。
 私の仕事場の隣の席で長らく一緒に働いていたKというオバサンがいた。彼女は私と同じ年齢だがオバサンである。あまりにも美しいスタイル、美しい長い髪をもったオバサンであるが、如何せん酒の飲みすぎで顔がいつも腫れぼったい。客商売ではないので化粧もしない。実際問題、今回の話には彼女の容姿は全く関係ないのだが、彼女はシステムのエンジニアとして非常に優秀である。彼女はおそろしい量の仕事をこなしてゆく能力がある。スピードも並大抵ではない。人嫌いなので、仕事の内容を後輩に教えることはない。リーダーシップをとることもない。ただ現場に密着した具体的な仕事を考古学者の穴掘りみたいにこなしてゆくのだ。彼女はその仕事の中で何度か腱鞘炎になっている。マウスの使いすぎで腱鞘炎になってしまうのである。ほっそりとしたその腕がきゃしゃであるというのはその理由になっているかもしれない。彼女は午前中は右、午後から左でマウスを操作するという奇妙な習慣がある。片方の腕を酷使しない工夫である。右手が腱鞘炎になっても左手で十分仕事を続行できるのである。そのせいで、彼女はテンキーも左右両方の手をつかって操作できる。実際PCを使う仕事の界隈では、左右両方の手でマウス操作ができる人間は少なくない。つまり普通にそういった分野の仕事をしていると自然に両利きになってゆくのである。彼女は右派と左派のバランスのよい国会のように自分の身体をシンメトリックに使ってゆくのである。例えば合気道や柔道という武道には、利き手という概念がない。背負投は右からも左からも掛かり、右だけの体捌きなどというものもない。本来的には野球においても利き手などという概念は本来ないのだ。どちらの手でボールを投げても構わないし、スイッチヒッターなどということも特殊なことではないはずだ。両方を均等に使っていればよいという話なのだ。試しに右利きの方々は長時間における右手の床拭きでもしてみるがよい。すぐに右手が疲れてくるに違いない。そして左手を使うことになるだろう。左手を使いはじめると当初は違和感があるものの数時間で右手と寸分なく同じ動きが可能になり、違和感もなくなる。二項対立が溶け合う瞬間である。概念の転倒が行われる哲学的な瞬間である。ひょっとしたら右翼政治は左翼政治と対立しているのではなく、むしろまともな政治は左右が溶け合う可能性がないだろうか。
アメリカのチアリーディング 効きの方向は本来はない。パンツを履くときに右足を先に通すか左足を先に通すかなどは本来どうでもいいはずだが、心理的に不健康な皆様においては非常な違和感を抱くことになる。利き手を含めて操作しやすい方向はある意味で単なる思い込みに過ぎない。違和感のある方向を積極的に行うことは私のお勧めである。違和感のある方向を避けるのではなく、むしろ積極的にその違和感を攻めるのである。攻略するのである。そして、これらを何も考えない阿呆はずっと片方で行きておればよいというおいうことである。
宝塚歌劇団 二項対立とは論理学用語の一つで、 二つの概念が存在しており、それらが互いに矛盾や対立をしているような様のことを言う。 元々は一つの概念であったものを二分することにより、それを矛盾や対立をする関係へと持っていくことを二項対立と言うこともある。この矛盾や対立がいつしか全く同じ様相をなすことが度々ある。究極的な二項対立の融和である。北朝鮮女性将校の行進と宝塚歌劇団のダンス・アメリカのチアリーディングである。思想が反対であるのに最終的に呈する様相が非常によく似ているという摩訶不思議な融和。二項対立の本来的な姿は全く同じものなのかもしれないという可能性があるかもしれない。亀と兎はひょっとして全く同じものの違う側面である可能性はないだろうか。



2022.08.01