Documents

何故、私は生きているのか


 宇宙の話をすると嫌がる女の子がいたのである。現在の宇宙理論の中では宇宙がどういう構造をしているとか、多元宇宙論(マルチバース)など様々な説があり、それらは日々観測や計算によって証明されつつある。そういう壮大な途方もない話を聞いていると死にたくなるのだそうだ。なかなかおもしろい希死念慮ではないか。そういうことを聞くと私はもっと話を聞かせたくなるたちなので、ありとあらゆる私の知識をお披露目して「いやー!」と言わせたくなるのである。とはいえ、広大な宇宙の小さな片隅のゴミみたいな大きさの玉の薄っすらした膜みたいな層に我々はかろうじて生きているのは科学者によれば、本当のことらしい。実際問題見たこともないし実感したこともないので、宇宙論は少なくとも我々の妄想の一部であるというのが私の個人的な考え方だ。それは非常な勢いで全くリアルではない。これは気狂いアナクロニズムの一種なのではないかとさえ思っている。時折飛行機に乗ると飛行機が急旋回した際に空の真上近くが見えるときがある。そのとき、真っ青な空の真上は薄っすら黒くなる。宇宙の一部が見えた瞬間なのかもしれない。私が最も宇宙に近づいた瞬間である。
 彼女は生きていることには意味がないといつも言っている。たしかに彼女の言う通り我々には生きている意味はおそらく皆無で、逆にいうと死ぬ意味もあんまりなさそうなので、とりあえず死なずに生きているということになっているのであるが、そう考えると休日の朝からビールを飲んでも比較的些細なことで誰かさんに叱られる理由もなかろうというような気分になって、ビールなどを飲みたくなるが、如何せん私は下戸なので、アサヒ・スーパードライ(ノンアルコール)を飲むのである。そういった意味で人生の無意味さや虚無の意識は、私を若干大胆にする。意味がないのであれば多少の生命の過剰は許されるだろうという思いである。
「権力は真空(power void)を嫌う」という言葉があるが、それと同様に無意味な虚無には、逆に意味が集中してしまうのである。満州が当時殆ど誰のものでもなかったという事実が中国・韓国・日本・ロシアの覇権争いの元になったように無意味な人生や生命には、アホみたいにいろんな人が群がってきて人生に意味を与えようとするのである。そうして成立する宗教やサンマーク社の生き方啓発本とかおせっかいな隣のオバサンの助言とか、飲み屋のカウンターで昔話をするお爺さんや説教臭い人間達がその空虚な無意味な生命にいろんなものを無責任に放り投げるのである。やれ親孝行をしろとか、生きているだけで罪とか、南無妙法蓮華経を唱えれば苦しみから開放されるとか、つまりアラーの神であるとか、バナナを食べさなさいとかそういったものたちだ。そもそも無意味なので、そこには無意味な意味たちを恣意的に詰め込んでは悦に浸れるという喜ばしい構造がある。ジャック・デリダもそう言っていた。いや、言っていないかもしれない。でも言っていたような気がする。いや、先日別れた彼女だっけな。まぁどうでもいい。
 幼い頃、私はお母さんに何故人間は生きているのかという質問を無邪気にしたことをよく覚えている。幼少の頃は、芝生に寝転がり青い空をじっと見つめていると変な気持ちになったものだ。この感触はいわゆる少女文学的なものでもなく、何かしら芸術的且つ壮大な気持ちでもない。不安になったわけでもない。非常に変な気持ちなのである。心理学的には定位反応というらしい。まだ知らぬものを目にしたり体験したときに、その事象に伴う感情というものがないので放心するのである。やがて人間は、事象そのものを予想し、その事象に対して正しい反応をするように訓練される。交通事故のでバラバラになった死体と見ると「きゃー!」といって顔を覆い隠すとか、弱いものいじめをしている者を見かけると怒りの感情がわくとか、そんなようなことである。しかし初めて見るものに対しては「きゃー!」も怒りもないのである。私はこの「きゃー!」も怒りもない、喜びも悲しみもない空虚なこの感覚は実に生きているという実感を伴うものだと理解している。生きていることに意味があるとすれば、この何もない感覚、未分化で素朴な小さな感覚が私を支えていると考えるのである。



2022.08.05