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天城越えと超人論思想


 世の中には全く努力したことがない人がいるのである。その反対に概して金持ちは非常によく努力しているのである。彼等は努力する時間と余裕があり、そのおかげで人並みならぬ努力を豊富に行っているのだ。しかしだ。貧乏人は努力をする機会が全くないのである。私に言わせると努力というこの不思議な言葉は現在は金や時間で代替できる代物であって、努力は金で買えるという真理に尽きるのではないかと思っている。ですから、努力していない皆さんにおかれましては、何も気にすることはない。努力は所詮お金持ちの道楽であってそれが何かしらの善の指針であったり道徳のあり方であったりする筈がないのである。アフリカで毎日100km近くを歩いて水を汲みに行くなんていう人々が第二外国語を学ぶための努力をするだろうか。そそもそも水汲み業務にあたって第二外国語は必要だろうか? 否、この日本では二宮金次郎像たる努力の権化の象徴みたいなものが小学校の校庭にあったりして、これはこれで考えあぐねるのである。「いや、あなた、貧乏でもあなた、努力できるでしょ?」と。報徳、万象具徳、積小為大、一円融合、心田開発、と殆どお経にしか見えない二宮金次郎の教えであるが、彼は残念ながら努力した人ではない。彼は天才だ。なので薪を背負いながら本など読んではいけないのである。だって、あなた、あるきながらスマホみて頭良くなってますか?
 私の三人の息子は努力をしない。そもそも努力をするという教育を施していない。彼等はいつも遊んでいる。お小遣いの中から100均で何を買うべきかを思案し、なぞのグッズを買う。私はそれらの物品が将来的な投資に値するものなのかを銀行の頭取みたいに審査をして、それらの物品に対して評価をする。そういう教育をしているというのは全く嘘です。とはいえ、古典的な努力にしろ、現代的な努力にしろ、この努力には決定的な差があるのである。それはあなたの人生を左右するほどの決定的な事柄だ。

勇気の鈴

 私が息子達に通わせていた幼稚園は非常にユニークだった。その幼稚園は実は幼稚園ではなく(国の認可はおりていない)いわば闇幼稚園で、知る人ぞ知る幼稚園である。概念的には幼稚園ですらないということになる。というのも幼稚園という土地や校舎を持たない幼稚園なので、毎日遠足なのである。この時点でもはや幼稚園ではない別の団体である。若干4歳・5歳の子供が毎日もれなく5km歩くという驚異的なスパルタ教育する。高尾山はハイキングレベル、御嶽山は半年に一回ほど登る。卒園時には八ヶ岳を頂上まで登るという想像しがたい闇幼稚園である。ちなみに登山時には、お金持ちで豊富な年金をもらっている気味の悪いヒステリーオバサンパーティに「幼児虐待だ!」と罵倒されながら登山するのである。)体力はおろか、幼い子供に軍隊式のディシプリンを与えるという今の日本では珍しい幼稚園である。その幼稚園の夏の行事に子供達は二人一組になって夏の暗闇を歩き「勇気の鈴」を持ち帰るという肝試しのようなイベントがあるのである。泣き出す子供がいたり、最終的に勇気の鈴を持ち帰ることのできない子供もいる。いろいろな子がいる。しかしその暗闇に対して挑戦的に挑み、勇気の鈴を持ち帰った子供達の何と晴れやかなことか、誇り高いことか!私は想像する。5歳や4歳の子供たちの勇気と誇りを。あの可愛らしい子供達が何を思い何を糧としてあの勇気の鈴を取りにゆくのか? 3人の息子にその話を聞くと「ん?全然覚えてねぇ」という話だった。にも関わらず、私は3人の息子のあのときの顔が忘れられない。彼等は何かをあの瞬間に克服したのだ。
 私がその幼稚園を本当に愛していたのは、殆どに先生が日体大出身で20代、とてつもないアスリート系でガチ体力があり、とてつもなく美しく、方や音大卒業のこれまた20代の先生が可愛らしかったからである。文武両道の極みだ。
 人間はある時期にある何かを個々に乗り越えてゆくという体験をする。どれだけ高いところから飛び降りれるか?とか、あの駄菓子屋のババアを騙してうまい棒を万引できるか?とか、音楽の先生のスカートをめくってパンツを見ることができるか?とか、本当にどうでもいいことに熱意を燃やし克服してゆくのである。社会的に良しとされる諸々の行いの中で克服し成長してゆけるものなど、些細なものだ。いや、善とされるものに対する克服は私個人の意見ではむしろ努力レベルがゼロに等しいとさえ思っている。褒められるべきことを克服するなんて非常にバカバカしいと思いませんか?私は思いますよ。我々はそういった表向きの努力の他にアンダーグランド且つ闇の部分で相当な事物を克服しているわけである。
例えば私には数千万円の仕事が降ってくるのである。¥10,000,000という桁数になってくると、私も「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん、、、」と数えるのである。時々一桁間違えて1億?とか言ったりするぐらい桁数を間違える。これはこの数字に慣れていないという証拠である。イーロン・マスクは間違えないだろう。いや、逆かな。10円と100円の間違い程度でさほど気にしないかもしれない。とにかく先日4500万円の仕事の受注に力を注いだ。それと並行して年間3億円の案件確保に従事させられている。これはですね、結構私も厳しい。勇気の鈴を取りに行く勢いで、相当な勇気を必要とする。しかも克服すべきは化け物やモンスターではなく、先方顧客の社長である。可愛くて間抜けな部下達30人ほどを食べさせなくてはならない。会社を存続させねばならぬ。いろいろなプレッシャーの中で業務を行い、挙げ句の果てに「モリリさん、本当に仕事やってるんですか?」などと、エクセルのマクロづくりにかまけて一日遊んでいる平社員に窘められるのである。そりゃね、ウィンブルドンなんか始まってしまったら朝まで見るよね。あの緊張感、ミスは許されないあの緊張感、あれは世間のお父さんの生活をわかりやすくしたみたいな象徴的なイベントですよ。マッケンローの暴力的なラケット折り、シャラポアの乳首、フェデラー強すぎ・もうおっさんやん・あんた、ボルグの時代って何かみんなバンダナしてたよね、そう、彼等は責任と緊張とこれまでの努力と想像しがたい個人的なあれこれの集積のようなあの試合で数時間狂ったように戦うのだ。彼等は横から突然出てくる魔物に備えてありとあらゆる準備をし戦うのである。勇気の鈴を獲得するために。
しかし一方で努力をしたことがない人間というのは世の中にいるのだ。努力のしたことのない人間の特徴をいくつかあげよう。ニーチェ並に根拠はない。

  • 常識を愛している。普通を信じている普通教。
  • 思考の殆どが妬みと怒り。思考の解像度が極度に低い。
  • 悪いことをしたことがない。

これは会社で面接ばかりしている私の経験の秘技であり、必殺拳法の皆伝に関連する重要事項の教授なので、聞き逃さないでほしい。雇うべき人物は「変態に限る」ということだ。常識的な人物を雇ってはいけない。

悪の努力

 天城を超えたことのある人はどれぐらいいるだろうか。天城は何も石川さゆりだけが超えているわけではない。サビのメロディーの最後に伸ばすゾンビのような手つきはいったい何のか。あれは歩いて天城を超えたのだろうか。いや超えてない。越えただけである。天城を越えると、土肥という肥えたような地名の街がある。いや、こんな話はどうでもいい。私は歩いて天城を越えたことはない。自転車で越えたこともない。自動車で越えました。いや、自動車でも結構つらい。当時は伊豆縦貫道という道がなく、未知の暗闇に満ちた細っこい山道を延々とくねくねと登り下りして越えるのである。想像してほしい。源頼朝が島流しにされた場所である。つまり離島に等しい半島である。その地域を浮気相手とセックスしながら歩いて越えてゆくという物語が石川さゆりの「天城越え」だ。これは二重の意味で頼もしい。さすが源頼朝。頼もしい。天城越えは若い頃からやっておくのがよい。
 勇気の鈴を携えて帰還した子供たちはやがてこの世界にはお化けも幽霊も実際はいないことを知る。お化けや幽霊はこころの中に宿るある種の恐怖心の象徴的なものだと知る。ある年齢になると暗闇が極端に怖くなることはなくなるのである。世界の解像度が高くなる瞬間である。何かを乗り越えると世界の風景が違ってくるのである。魑魅魍魎の世界観が開かれる。
ニーチェが破壊的だったのか創造的だったのかはさておき、当時としては神様を殺すのはなかなか勇気がいたことだろうなぁと私は思うわけです。キリスト教のお寺、つまりシンメトリーに開かれたあのドームの中心で牧師や神父に囁かれると何かしら本当のような気分になってくる。権威がそれなりのレトリックでもって(相手はむしろレトリックのプロだ!)囁かれると嘘もまことしやかなリアルさになる。そのような世界観の中で神を殺すのは大変な作業だろうと私は想像する。私はニーチェの履歴書を見て面接時に「神を殺しました」と言ったなら、即採用。彼は非常に努力した人間だと私は評価するのである。このような変態を異常者とし取り扱えないのは自分にその手綱を握る才能のない阿呆だけであるというのが私の意見だ。私という人間が偉大ならば、これぐらい破壊力のある且つ創造の可能性のある変態を是非部下として使ってみたい、そして私自身が試されるのだと考える。



2022.08.11