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概念・生・型


聖母マリア 何かしらが生まれるとき、たいていのものにはすでに概念が存在する。過去の誰かが作った概念とそれに伴う伴う大衆化した物語が予め用意されている。それは具体的な事物から高度に抽象化された事物まで様々なものがあり、殆どの人間はそれに従う。新しい会社が生まれたときは法的にその会社という概念に従った一定の手続きを行う必要がある。赤ちゃんが生まれたときは、同様に新生児という概念に従って公的な手続きを施行するのと同時におっぱいをあげたり寝かせたりと我々がとり行う様々な行動にはルールや慣習や伝統がある。ルソーの「エミール、または教育について」(Émile, ou De l’éducation)に見られるように西洋ではある時代には新生児の赤ちゃんを布でぐるぐる巻きにした。身体がまだやわらかく外界の環境にうまく適応していないという理由などから赤ちゃんを固く布でくるむ習慣があった。今現在はその方法論は逆に有害で新生児の身体に悪影響しかないとされている。
 何かしらが生まれてくる際に、それ相応の概念があり、その生(新しく生まれたもの全般)に対してそれなりの慣習・ルール・ガイドラインがあり(それらをここでは「型」と呼ぶことにする)、そのあらゆる型を正しく学習することが生への貢献になるというのは実際問題として否めない事実である。型を通して我々は学び、型を通して何かしらの社会的乃至道徳的な事象を含めて学ぶ。極端な例でいうとその型の種類やパターン、歴史的な叙述の知識でもって頭脳の明晰さや賢さを測るという試みまであるだろう。少なくとも日本の義務教育の中ではそれらの要素が濃い濃度でぎっしり詰まっている。型を学び、型を伝承し型を生きてゆくという基本的な方針だ。
 空手や柔道などの伝統的な武術には型がある。流派によってそれぞれ似ていたり違っていたりする型があるのは、武術としての個性である。そこには長所もあり短所もある。絞め技や寝技を得意としない空手や合気道は、柔術を学ぶときにその型を最初から学び直さなくてはならない。あるいは別の型として習得し直す必要がある。我々が日常的に生活の中で活用しているこの型はそういう意味では常識ではない。まして普通でもない。型はよりよく生きるための型であり、デタラメな常識を生成するものではない。しかしこの型=常識の公式は比較的世界にはびこっているのである。しかもそのような型=常識のテーゼには殆ど目的がない。

型=常識

 幼い頃、私はよく両親に「恥ずかしい」と言われた。そのような行いは恥ずかしいといった趣旨の行動制限だ。そのひとつにむやみやたらに知らない人に道を聞いたり質問したりするのは恥ずかしいということだった。両親は二人で地図を見ながら迷い、誰に道を聞くこともなく迷い続け大幅に時間を無駄にし最終的には夫婦喧嘩をはじめるという風景を私は何度も見てきた。質問をしない=知っているふりをする型というのが存在し、それはつまり何らかの伝統であり手法であり慣習であり、その型は生活、あるいは生命そのものに対して何らかのメリットが与えられていると考えられる。しかしながら私の私見ではそこに全くもってメリットが見当たらない。しかしおそらく百歩譲って知ったかぶりに関する何らかのアドバンテージがあるとしたら、いったい何なのだろう。恥ずかしいに関連する世間の型にはおよそ実用性のないものがあり意味はすでに空洞化し無意味を継承している可能性がなくはない。    
 しかし、武術の型でも形骸化した型というものは少なくないし、下手くそが真似しただけの中身のない「型の真似ごと」も存在する。型はその意味や知を利用する本人の技術次第で「型の真似ごと」になる可能性も十分にあると考えられるのである。
型の典型的な例として儀式がある。その儀式の中では執り行われる儀式のプロセス、つまりプログラムはおそろしく滑稽なほど厳粛に執り行われる。相撲の立ち会いの前に撒かれる塩の意味やその効用、実質的に何かしらの実用性や意味があるのかと言えば、おそらくない。一種の伝承としてそれらの儀式的・形式的な意味は少なからず見出すことができるかもしれないが少なくともボクシングやその他の格闘技で試合前に塩が撒かれることはないだろう。しかしおそらくはこれまでもそうだったようにこれから先も同じように塩が撒かれることだろう。塩を撒くことにもはや意味がないので、同様に辞める理由もないのだ。



2022.07.26