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情報の価値 希少性 / 汎用性 / 大衆性


インターネット上の情報の価値の殆どは検索エンジンに依存している。もし仮に検索エンジンに依存していないとすれば、そのインターネット上の情報は古きよき時代のように口コミや雑誌広告などの旧来の方法でしか広める手段がない。インターネット上にある情報の価値はすべて大手の検索エンジンに委ねられていることになる。これはリベラルな立場からするとある種の言論統制のように見えるし、おそらく広い意味での言論統制であることは間違いない。Google, Yahoo, Baiduでインターネット情報のすべては成立していると言っても過言ではない。
かつてインターネット黎明期の時代は、個人が持っている情報リンクによってその情報の広がりを体験した。よく見る質のよいサイトやホームページにあるリンクは同様に質がよく、自分のお気に入りの分野に関連したものだったからだ。そこには欲しい情報がありコアなファンやギャラリーが集まる街の飲み屋のような状況だった。キーワード検索の結果にはまだまだそれほどの価値がなかった。その後、情報はmixiなどのSNSに移行した。そこには自分たちの住んでいる社会を丸写しにしたようなサーバー空間がそこにはあった。
インターネットはその後Web2.0といわれる時代に突入し多様な変化を遂げた。尚も発展途上にあるこの世界では、既存の物理世界と比較して情報の価値というものが著しく変化し、今も爆発的な勢いで変化している。

専門領域の情報はインタネット上では価値がない

ごく一般的な低能な人々に向かって発信される情報、すなわち芸能人のゴシップや安易な政治批判などはインターネット上では少なくとも非常に価値がある。というのも、それらのコンテンツにはそれほど価値がなくともそれらのコンテンツに集まる層の厚さでもって広告という事業が十分成り立つのである。しかし専門性にまつわる情報はそうではない。インターネット上では逆に全く価値を持たない。なぜならそれらの情報を求めている人々が少なすぎるのと同時にその情報自体が非常に希少なのである。しかしそこに希少価値は全くない。専門的な情報はその専門分野において非常に有用な情報であっても、その文脈やバックボーン、強いてはその技術的側面が非常に難解なため、むしろ大学のような閉鎖的なアカデミックな世界での情報流通の方が向いている。インターネット上に置かれたその情報はその専門的な情報に関わらない人間にとっては全く価値がない。そのような情報は今も尚、専門書として数万円で出版されていたりするが、これを購入するのは今でも大学や大学院の学生だけであったりする。私の父親も数万円の専門書をよく購入していた。
そういう意味で専門領域のより高度な情報をインターネットに掲載しても全くマネタイズできないということになる。専門性=希少性には殆ど価値がない。
我々がブログなどで情報を発信する際には、そういった矛盾にさらされることになる。ごく一般的な素人向けのブログ記事はそれなりの(広告収入)という成果を得られる可能性があるが、より深く、よりこ高度に洗練された専門知識には全くニーズがないのである。

情報の価値

そもそも情報の価値とはどのようなものなのだろうか。少なくともマネタイズ可能な情報だけがその価値を推し量る基準になるわけではない。情報の価値はもう少し複雑且つ奇っ怪だ。玉砂利が混在するインターネットの世界ではそもそもその情報が事実であるのか(正しいのか)、嘘であるのか(偽りであるのか)の判断がしづらい。勿論アポロの月面着陸が全くの嘘で全人類がテレビのブラウン管を通して嘘の情報を鵜呑みにしているということがあるかもしれないとしても、少なくともテレビやラジオ・市販の雑誌の情報はそれなりの信ぴょう性を伴っている筈だ。そういう意味ではすでにいくらかの価値があると判断できると同時に、それなりの歴史と文化的な醸成があり、それなりの古き良き価値があるのである。しかし、インターネットの情報はある意味で、そういった事前の権威付けが皆無であり、この記事も何からの出典で、どの誰が、何を目的として書かれているのかという権威付けが全く皆無なのだ。そういった意味では、丸裸の情報に価値をおくにはその情報全体の把握と理解が必要になり、権威から情報の重要度を算出するよりコストがかかってしまう場合がある。そういう意味では低学歴でも低能でも素早く雰囲気で理解できるコンテンツというものは、専門的な大切な情報よりもはるかに大きな価値を持つことになる。

文脈の途切れ

マクルーハンが再三発言したようにメディアが大きな意味をもちはじめたきっかけは活版印刷だった。文字情報が複製され、人々が同じ物語(神話)を共有することを可能にした。マクルーハンが言う意味のメディアはそういった側面ではインターネット上の文字も活版印刷であると考えてよいと思う。複製されているという意味ではその伝統を今でも尚保持している古いメディアだ。しかし活版印刷を著しく違う店点は、その複製のスピードとその複製されたもののスクラップ&ビルド=コラージュの流通と、その複製物がチリチリバラバラに分解された一種の詩のような破片だ。インターネット時代の情報は、大きな文脈を持ち合わせるかつての物語ではなく、時代を遡って退化したかのように文字情報は短く分断され1つの詩(うた)のように響く。万葉集や古今和歌集のように読み人知らずの詩が量産され消費される。かつての文字文化が担っていた文脈をつくるという作業は現代ではすでに解体され、それらのここの断片がそこら中に落ちていて、おもしろいものを拾い、自分なりに文脈をつくってゆくと言う作業を強いられる。もしここで文脈を作れない人間がいるとしたら、彼等は断片ごとに恣意的に楽しむという刹那的な生き方をせざる得ないだろう。我々の時代は、情報を取り込んだあとに自分なりに編集作業をしなくてはならないのだ。編集し再編成し個人のレベルで理解し記述し出力し、運がよければそのフィードバックをもらうことができる。集団から個が確立された時代に起きていることは文脈の再編成の義務は自分にあるということだ。つまり自分で情報の価値を再編成シない限り、この大量に日々出力される情報はゴミの山になってしまうというわけだ。我々は聖書を手にすることによって救われることはない。聖書はすでに断片化され、ある比喩の事例でしかない。かつて編成された聖書という大きな文脈を聖書が意図した通りに我々が理解することはひどく前時代的だ。



2022.04.12