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賢さと愚鈍さについて


今も昔も誰もが皆賢い人間に憧れている。賢くあろうとしている。私自身も自分が賢い人間であろうとするその意思には異議申し立てはない。むしろ賢くあろうとする態度や行動は善行であるはずだ。しかし残念ながら前提として賢さの定義は時間とともに常に変質し変化し以前とは全く違うものに成り果てる。それゆえに賢さの向かう先を完全に誤解し見誤れば、私達は愚鈍さに向かってまっしぐらに進むことになる。これから先AI時代は「賢さ」の定義が完全に変わるだろう。宗教革命以前と以後では完全に賢さの定義が変わっただろう。狩猟時代の賢さは農耕民にその賢さを与えることはできただろうか。賢さは常に変化するゆえに本当の賢さはいつの時代でもそれを定義づけるのは困難であるが、その困難さの中でも前提となるものはその変化を捉える人間でもなければ、その変化の方向性を知っている人でもない。その変化をそもそもの前提であると理解している人であると思う。そういう意味では愚鈍さの象徴は「変化を嫌う」というその態度や心理状態そのものだといえるかもしれない。
変化を嫌う人間は、その現在の状況にしがみつこうと必死になる傾向がある。実際問題周囲の状況が変化してもその変化にきがついていないのか定かではないが変化することを嫌うのである。緊急事態に平常の判断をするのは愚鈍であることは自明なことであるはずだが、それができないという状況を愚鈍とよんで差し支えないのではないだろうか。
しかし賢さのイメージはいわゆる科挙のように国家的な官僚採用試験に由来するような数々の試験制度によって定量的に蓋然性を判断できるというイメージがより一般的であり、より客観的な判断が可能であるといったもの、またあるいは、賢さがもたらす多くの人に尊敬されるなどといった自尊心保持など低能な連中の中の賢さのイメージは賢さの中核になる「苦難な状況を解決する」といったそれそのものとは全く違った見解である。賢くなろうとする者の目標は試験に合格し皆から尊敬されるといったずさんなイメージの中に色濃く定義づけられていたりする。またそれを一般的に賢さという定義にして誰もがそれを(ある程度)疑わない。またあるいは、多くの知識を言葉によって表現できる者、あるいはその膨大な知識をもっているその状態そのものを賢いとよぶよぶ傾向がある。それは本来的には実に不思議なことだ。そして愚鈍さについては誰もが多くを語るが賢さについては誰も語らない。せいぜい狭き門の試験に合格しただとか、数カ国後を話せるだとか、それ以外の指標で判断することができないのだ。その程度である。
ところで「賢さ」という意味で西洋(特に英語で)で語られているそれは、smart, wise, clever, intelligent, bright, ingenious, brilliant, sharp, resourceful, adroitという数多くの言葉が存在する。その文脈によって使われるその意味は多彩で口語的・文語的な表現など様々であるが、日本語の「賢さ」というものはどのワードに相当するだろうか。smartはそのままの意味で賢いというよりはむしろ端的にシンプルでサクッと解決するようなその動作や態度のことを表現している。おそらく賢さに由来するその行為のスマートさのことを言うのだろう。ガツガツした努力や泥臭い遠回りをせずに済ますシンプルな感覚を強調している。wiseは、日本語の賢さに非常に近いニュアンスだ。賢者のもつ賢さそのものを指すのだろう。私個人としては村の長老や多大な経験を重ねた賢者を彷彿させる。いわゆる仙人的なイメージが近いが、仙人的な賢さを備えた人間というニュアンスなのだろうと思う。cleverは賢いというよりも限りなくずる賢いというニュアンスに漸近している。だが、ずる賢さも味方となれば賢さの部類であるし賢いことには代わりがないが非常に恣意的且つ偶発的な賢さの部類に入るはずだ。元々賢くない人間に対する「賢さ」を表現する言葉なのかもしれない。intelligentはいわゆる頭のよい人間を総称して表す言葉ではあるが、知的であるという意味が日本語のそれに近い。知性があるというわけだ。語感としてはその知性と人間性の総合力のような肯定的な意味合いがあると思う。勿論文脈によっては頭のよい人間たちを揶揄するときに使われることもあるが、往々にしてベーシックに頭のよい人間を指す言葉であることに間違いはないし育ちの良さなどの人格的な要素を彷彿させる。brightは聡明というような意味だろうか。いつも快活で非常に明るいイメージの賢さを表現していると思う。ingeniousは天才的というか独創的といったニュアンスだろうか。brilliantは鮮やかという意味だが転じて賢いという意味で使われる。華麗であるとかそういう感触を含んでいる。sharpも鋭いという意味だ。これは日本語でも同様に表現する。賢い人間は鋭い洞察力、鋭い観察力、鋭い直感、鋭い予想、鋭い何とかで満ち溢れている。resourcefulは豊かで広い知識や経験、そういったアイディアの巨大なプールを思わせる。adroitは元々はフランス語だ。技巧的且つ職人技のようなニュアンスがあるが、俊敏且つ機転が効くみたいな意味合いが強いかもしれない。我々が賢いというとき、いったいどんな賢さを想像しているのは、いつもはっきりしないのだ。また賢さとはそもそもはっきりしないものなのかもしれない。
はっきりしない賢さを誰もが肯定的に受け止める。逆に賢さが敵方にまわると恐れを抱く。

身体性

一人の人間がある価値を発揮するとき、その人物というアイデンティファイサれた存在そのものが1つの肉の塊としての価値をもつ。それは賢い機能ではなく、賢い人間そのものだからだ。そういう意味では賢さの本体はすでに身体性に宿っていると考える。我々が考える頭脳のよさは本来的には身体によって操作されている。医学的な側面から見ても頭脳は身体維持のためのオプションに過ぎない。脳科学が発達した現在ではその事実ははっきりしているし、身体を維持するためのほとんどにその脳のリソースを費やしている。我々が出力する表現やいわゆる賢さを伴った活動は脳の活動量の数パーセントにすぎない。我々の脳は体調を管理するためのユーティリティーであり、身体の各所の情報を中央集権的に寄せ集めた情報交換の場である。賢さのエッセンスは非常に微量だ。にもかかわらず、ホモサピエンスとしての人間のアイデンティティーはその賢さにあると直感的に定義するわけである。我々を特徴づけるその賢さは機能の数パーセントであるにしろ他の動物と著しく違うと部分として著しく違うというわけである。にもかかわらずその知能は身体に宿り身体に支えられている。

賢さの本質はその柔軟性と境界の臨界面にあると私は考えている。



2022.03.07