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地球上で生きている生命の目的


 究極的な話でいうと生きている目的は何であるのか?という話は相対的に下品な話であると思うのです。人間の営みという全体性でみると人生の目的、翻って生命それ自体は何のために生きているのかという問いは猥褻且つ下品であるというのが私の見解だ。厭らしい(イヤラシイ)のである。そして、その下品な行いを少なくとも誰でも行いたくなってしまうというのが、この生命の存在意義とか何故生き続けなければならないのかということなのだと思うのだ。夕食時に糞尿の話題が好まれないようにこのような根源的テーマも好まれない。そういうものである。同様にして「お母さん、僕はなんで生まれたの?」は二重の意味で答えづらいというのはそういう意味である。要するにスケベな話なのである。
 ではスケベで猥褻な話題を続けよう。この卑猥なテーマに関してアプローチしている現在の人々は、宗教的なもの、自己啓発的な某(なにがし)やらが半ば真剣に考えていてくれている。ただこれは「私、いったい何のために生きているの?死にたいです!」といったものに対してのアプローチであって、我々が生きている理由の回答にはまるでなっていないというのがその姿であります。考えてみれば生命とは不思議なもので、この宇宙がどんだけ広いのかはわからないけれど、これだけ広い宇宙の中で小さな銀河の片隅にある太陽系のこれまた豆粒みたいな地球のさらに膜といっても過言ではないぐらい薄っすい空気の層の中でのみ謎の化学反応にて蠢(うごめ)いていてる生物というものがあって、純粋な自然主義のそれで言うとこれらはただの特殊な化学反応に過ぎず化学の法則に従って謎に蠢いているだけであるといった様子になるわけだ。そもそも原始地球の大気や海にあったアンモニアや窒素、酸素といったものが、コアセルベート(coacervate)というコロイド状の塊をつくり、それらが生物の細胞に至るまでに多様な進化を遂げたというような神話のような説明がなされるが、これはそうであっても違っていても特にどうでもいい。無生物という物質から何らかの形で生物が合成されたということ自体は間違いではないので、神様が数日間で作ったとか、原始地球の大気と海に雷が落ちただとか、特にそれらの物語は何でもよいのだろうと思うし、これらの事実が我々の生きている意味や目的には何ら関与しないというのは本当のことだ。生物発生の物語は私達に関係ないところの物語であると思う。
 生命が存在する目的や我々が生きる意味において、それらが何であるのかというアプローチは肌触りのよい宗教的な説教やドグマと化した倫理的なその事項意外にも様々な側面がから考えられうるのだろうけど、殊の他、生命という抽象度の非常に高いビッグワードに関連して姑息にアプローチすることはできないだろう。
 ある仏教の宗派のあるお寺のあるお坊さんが「人生の目的は少なくとも苦しむことではない」と言いました。これはネット上のどこかで私が拾ったテキストであるか、私が先程でっち上げたテキストであるかは別としてそういうものがある。これは、どこにでも落ちているようなものなので、さほど珍しいものでもありがたいものでもない。ユダヤ教は「人間は神のかたちに創造された存在であり、人生の目的は,現在なお進行中の神の創造の業に参加し、これを完成して創造主に栄光を帰すことである。(引用:平凡社『世界大百科事典』第2版)と言っているが、これも人生の目的の某(なにがし)を語っているが、特にすべての人を納得させられるようなものではないだろう。こんなようなものが無数にゴロゴロ転がっているので2022年の「生きる目的」はもはや形骸化していて、ペラッペラな感じがしていてありがたみに欠けるのだ。今更、(知性のある人間が)人生の意味の消失とともに人生の意味や目的を再考するために生真面目に取り組む人間いるのだろうか。人生の目的を求めたり、意味を定義したがる人間の殆どは知性を失っているのではないかとすら思える。何が定義だ。
 いずれにしろ私達は、何だかよくわからない強い意志にとって生きよと突き動かされているに過ぎないというのが私自身の直感的な感覚だ。特にここに意味やロジックや感傷的な詩や宗教的な幸福感ややたらと説得力のある納得感などは不要であるというわけである。生命に対して大真面目にアプローチするとそういうことになるだろう。



2022.08.09