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何故生きなければならないのか / 何故自殺してはいけないのか


 ショウペンハウエルが「自殺について」の中で、自殺が唯一その他の事物と比較して全然違うのは「実験できないことである」と言っていたかどうか定かではないが、言っていたような記憶がある。とりあえず彼がそんなことを著作のどこにも書いていないようだったら私がそんなことを言っていたということにしてほしい。
 とにかく21世紀初頭、自殺したい人間が多い中ではある。これは悲痛な世の中の事実ではなく、むしろ流行り病のように何かしらブームに近いものを私は個人的に感じている。切腹ブームとか戦士ブームとか自殺ブームとか。とはいえ、この自殺の定義の殆どを占めているのが「すべてを捨てて南の島みたいなところで何も考えないで寝転んでいたい」ということ、あるいは神風テロ的な何かしらの事物に対しての暴力的な脅迫であって、本来的には自殺(仮に本来的な自殺というものがあればの話ではあるが)とは程遠い自殺願望であるということを考え合わせると、自殺という定義は非常に難しい。なぜなら100%の自殺が「すべてを捨てて南の島みたいなところで寝転んでいたい」という可能性すらあるからだ。自殺の定義の殆どが、もう働きたくないしずっとサボっていたいというものであるとすると、我々が直感的に抱いている自殺の悲痛な物語といったものはおよそナンセンスであるということにはならないだろうか。キリスト教は基本的には自殺を禁止している。これは自殺は道徳的によくないという内容をやんわりと示唆しているものから完全に不道徳且つ神への冒涜であるみたいなラディカルなものまで様々であるが、キリスト教的にいえば自殺の禁止はすなわち「さぼるの禁止」という非常に常識的且つ世俗的な教えみたいなことになってしまう。そう、我々は常におサボり禁止という文化圏の中で生活しているがゆえに簡単には南の島には行けないのである。
自殺の正当化について、またはその逆の自殺の犯罪性については様々な議論があるがここでは自殺のすべてを正当化することで、見えなかった側面について考えてみたい。

自殺の責任性・無責任性

 完全自殺マニュアルをアンチ自殺の比喩として読むのは間違いであると私は思っている。あの本は自殺を促し自殺を推奨している本に他ならない。直喩としてあの書籍に目を通すとその内容が本当のことなのかフィクションなのか非常に迷うことになる。なぜなら誰でもその自殺のリアリティーをうまく想像することができないからだ。ショウペンハウエルが言ったように自殺の試みができない以上、理論的にはこの世の中に自殺についてのリアリティーを描写できる人間はいないことになる。そういう意味では自殺のすべてはこの世における極端なファンタジーということになるだろう。自殺したらこんな風になるだろうなと思う想像のすべてがファンタジーなのである。
 私の友人の何人かも自殺している。首吊、飛び降り、薬、原因不明な臓器不全と死因は様々である。彼等・彼女等の自殺は比較的周囲の親しい人間が非常に面倒なことになった。数日間の事件性の疑いからの事情徴収や葬式や火葬の準備など面倒なことが諸々ある。あれは傍から見ていても非常に迷惑なことである。不慮の事故死とは違って意図的な自殺であるという前提においては、事前に告知し他者作業になってしまう事務手続きについては最小限にしていただきたいところである。しばらく誰も発見できずに死体が腐敗してしまうなんていうのはもっての他である。そういう意味では自殺は周囲の人間に対して罪深い。面倒な作業を他人に押し付けているということがある。しかしあるいは、そんなことも想像できないほど追い詰められていたと好意的に考えるべきだろうか。いずれにしろ自殺についてはきちんとした事前準備が必要であると考えるべきなのである。事前準備には公的な手続きから日本の法律でいうところの火葬までを一人で自分で行っていただきいという次第である。「申し訳ないんだけど、今年の夏頃までには自殺しようと思うんだよね」と事前に周囲の人々に告知しておいて滞りなく進めたいものである。「あ、夏?今年はちょっといろいろ忙しいので、秋ぐらいとかにしてもらえないかなぁ」という調整も可能である。そして周囲の人々が冷静に彼の自殺について調整してくれたとすると非常に悲しいという謎のストーリーが生まれるだろう。「そんなことはやめて!」と身近な人間がいってくれる、あるいはそういうべきだと思っているテンプレートドラマに身をどっぷり漬けている人々がいる以上、そのような安っぽドラマが繰り広げられること受け合いである。となると、まずは自殺については退職の意志と同じように周囲は冷静に通常営業で対処するという文化の下地をつくることからはじめなくてはならない。そしてその文化を積極的につくる過程には「命」の意味が露呈してくるのではないかと思うのである。まずは綺麗に死ぬ努力という謎のモラルが生じてくるのではないだろうか。自殺は突然すべてを無責任に投げ捨てることができるという最大のメリットに対して「綺麗に死ななければならない」となると、これはもう現在の自殺の意味の半分以上の意味を失っていることになる。すなわち自殺とは、その最大の無責任性に魅力があるということになる。
 吉田兼好の「大事だいじを思ひ立たん人は」にあるように自死あるいは出家に関しては世俗の諸々を整理しておくことは非常に難しいのである。

 大事だいじを思ひ立たん人は、去り難く、心にかゝらん事の本意ほいを遂とげずして、さながら捨つべきなり。「しばし。この事果てて」、「同じくは、かの事沙汰さたしおきて」、「しかじかの事、人の嘲あざけりやあらん。行末ゆくすゑ難なくしたゝめまうけて」、「年来としごろもあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物騒がしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとゞ重なりて、事の尽つくる限りもなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆、このあらましにてぞ一期いちごは過すぐめる。
 近き火などに逃にぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、恥はぢをも顧みず、財たからをも捨てて遁のがれ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来きたる事は、水火の攻せむるよりも速すみかに、遁のがれ難きものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨て難しとて捨てざらんや。

尊厳死

自死の肯定的な側面として尊厳死というものがあって北欧の一部の国ではすでに法的に導入されている。これは「自殺したい」と危機とせまるような人間が抱く自殺とは性格を異にするものだ。ここでは上記の無責任性が全く問われない。何故なら尊厳死の場合は、その本人がすでに概念上はすでに死んでいる状態、あるいはすでに死んでいる状態に等しいということになる。

よりよく生きるために



2022.08.14