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Open sourceという考え方


Open sorceとは何か

Open sourceという言葉をご存知の方もいるかと思いますが、現在のwebシステムのOSを含め、ミドル・ウェアやデータベースなど殆どのシステムがオープンソースという名の下に自らのソースコードを公にしています。プロ、アマを問わずに誰でもそのシステムのソースコードを読むことができ、場合によってはそのソースコードに改良を求めることができます。またそのソースコードに手を加え再配布も可能です。
しかし通常の技術は分野を問わず企業やその技術を保有する団体によって秘密にされています。特殊で価値のある技術は二重の意味で利益を生み出す原動力になるからです。ひとつは技術から成り立つ製品そのものが生産物として利益を生み、ふたつめにその技術自体が教育として次世代の利益を生みます。いわゆる特許やライセンスといった考え方は、その技術で利益を得ている者にとっては秘密にすることは至極当たり前と言えます。フリーメーソンは石工職人の技術を守ろうとした人々の団体であり、その技術の秘密保持に協力する人々の団体として発足したと言われています。日本の企業もそれ同様に自動車産業、繊維産業、コンピューター産業などもそれぞれの技術や設計思想を秘密裡に保持し、その権利と運用で利益を捻出しています。そこには利権が深く関わっていることになります。
しかし技術者にとってはこれらの利権は非常に不都合なものでした。というのもそもそもの前提として技術者はそういった意味での利権というものに対してまるで想像力がないか、あるいは鈍感です。彼らはよいものを作ろうと日々必死になっているにも関わらず、それらがいったいどのような経済的なバックボーンで成り立っているのか考えようとしないわけです。ジェフリー・ナックマノフ監督の「レプリカズ」という映画で主人公の技術者は上司から常に予算やスケジュールについていちゃもんを付けられているシーンがありましたが、技術者というのは実にあのようなもので、技術に対しての情熱がその他の周囲の事物をなざなりにしてしまうというシーンはままあるというわけです。実際、私自身もそういうタイプの人間であるといえます。とはいえ、技術者にとっては技術に対するソリューションが最も大切なものであり、もっとも優位にしなければならないものなわけです。医療にとってその病を治療することが最終目的であり、その病気を治療することによる利潤の獲得は別問題です。かつて日本では東芝と日立が日本の工業技術を先導していた時代があります。その時代の技術者は、例えば東芝を退職し日立に転職するなどといったこと(またその逆も)ご法度でした。その企業の先進的な技術が他企業に漏れてしまうのを阻止していました。ライバル企業が技術をめぐってしのぎを削っているさなかでは経営陣にとって技術を守ることが必須だったわけです。
しかしながら事実は全く違っていました。東芝と日立はほぼ同じ時期にほぼ同じ質の製品を生産していたのです。同じようなHDDを同じような時期に発売したりと、ちょっとその方面に詳しい人間ならば容易に気がつくでしょう。東芝と日立は何かしらの商品生産においては技術的にも全く同じ壁にぶち当たっていました。技術者は退勤後に新橋の飲み屋に向かい東芝・日立の技術者が日々議論を重ね同じ問題に対する解決策を見出していたわけです。経営者の利権に関係なく彼ら技術者はほとんど同じ課題に対し同じ努力を払い協力し合いました。
同じようなことがかつてのMicro softとAppleでも行われました。対立する企業においてさえ、技術者は特に情報のやり取りを尚はげしく行っていたわけです。当時WindowsとMacでほぼ同じ機能のソフトウェアが同時期に販売され使われていたことは我々もまだよく覚えていると思います。双方のソフトウエア技術者達は協力し合っていました。現在(2021年現在)でも例えばAWSとGCPのクラウド基盤の技術者など間違いなく技術交流を行っているでしょう。それらは経営者の管理や監視をもってしても食い止められない何かがあるというよりむしろ、その双方の企業の利益に貢献していたというのが最終的な結論です。
そのような考え方において、特にソフトウェアの分野では技術それ自体を公にし、互いに同じソリューションに向かって協力し合うという流れになりました。それがOpen sourceの基本的な考え方です。今あなたがこのテキストを読んでいるとき、このテキストが保存されているデータベースの設計、ソース、運用方法、バージョン管理のすべてが、mysql/mysql-server ここで公開されています。勿論専門的な部分は専門家にしか理解することはできません。しかしある一定の技術量をもっている技術者はここですべてを読み通すことができます。では、ここに利権は存在するのか、といえば実は存在します。mysqlは現在オラクル社が所有するシステムで立派な商品です。不思議なことにこれらはその「商品がもたらす利潤」と「技術の漏洩」が矛盾しないのです。
これらと似たような構造をもった文化体系にライブラリー(図書館)というものがあります。ライブラリーは様々な知識に関する宝庫であり、それを誰もが無料(またはほとんど無料に近い価値)で摂取することができます。これらはある種のオープンソースでありこれらを使って自由に派生物を創作することが可能です。
中東の戦争では街を支配するときに建物・人には傷をつけないようにすると言われています。代わりに彼ら実施的な支配としてライブラリーの破壊と言語の解体を行います。それぐらいライブラリーという考え方(概念)はその文化にとって貴重なものだったわけです。
利益を保持するための情報を公開することで、よりよく利益を得ることができるか?それはオープンソースの思想があらゆる意味で証明してくれている真っ最中でもあります。より汎用的な事物に関してはオープンソースは非常に有効な成長戦略です。秘密にするだけが利益戦略とはいえなくなっているわけです。私自身すべての事物を公にすることがよいこととは勿論思いません。しかし、何らかの有益な情報を秘密にする利点はさほどないとも考えています。Roughlangでは可能な限り情報提供してゆきたいなと思っています。
Open sourceはごまかしの効かない考え方です。つまり事実がそこにすでに横たわっているからです。しかしこれは現実的に大きな発展を促します。しかもこの発展は抽象的な物語ではなくいつも具体的に成長するのです。またその反対に事実を前にすることで大いなる決断を迫られることもあります。また大きな訂正を加えければいけない場面も出てくるでしょう。そしてそこに利権は存在しません。その技術を利用して次世代につなげることができる者だけが、その技術を成長させます。

知ること

そういう意味において知るということは、殊の外難しいことではあります。知ることとはある種の力量やそれ相応の情報処理の方法論が必要なのです。つまり、開かれている情報はすべての人間に対して平等に開かれていると同時に誰に対しても開かれていないという見方も可能です。有り体に言って「そういうものはけしからん」という思想の元には何ひとつ開かれないからです。そもそもOpen sourceの思想に反対する学派にとってOpen sourceは害でしかありません。また、知ることにより苦痛や感情のブレを知識や経験にしない者には殆ど意味をなさないのがOpen sourceであるということもできます。




2022.05.10