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哲学という考え方


哲学という言い方はやや古い。かつて哲学と言われていたこの言葉の指す現代の言葉は概ね「思想」という言葉に置き換えられている。現代哲学は現代思想と等価である。しかし「思想という考え方」というタイトルは意味が通らない。何故かというと思想は考え方そのものを問うているので、奇妙なトートロジーになってしまうからだ。しかしながら哲学という言葉はまだ死んでいるわけでもない。なぜなら誤解を含めた諸々の意味が垢のようにこびりついたままでも哲学はそこそこ現在も生きているからだ。少なくとも哲学は、よりよく生きるための宗教ではないし、科学と文学の間に落ちた落ち葉拾いをしているわけでもない。各科学に類する研究の文献整理をしているわけでもない。まして、自己啓発本が哲学というわけでもない。あるいは諸事情の言い訳をしているわkでもない。では哲学とは何かというと、世界の原理を問いただす学問であるという風に(大雑把に言って)定義してよいと思う。
哲学が誤解されるその原因は、ひとつは歴史が長すぎて意味が変容しすぎているということと、もう一つの原因は基本的には根本的に理解されると困ることが多いので敢えて難解にしたまま一般的な教養として禁忌しているところがあるということ。誤解されたままで十分であるといったところであるのと、またその解釈も様々であり、どれが真実であるか?などという問い自体が不毛であるといった一種の諦めのような雰囲気が常にあるということ。そして最後に「わからない」といったごく一般的な人々の解釈がまるで殆ど意味のない抽象画のようにポツンと置かれて、仏様のようにカント様ありがたやーと皆で拝んでいるという風景そのものが哲学の存在意義のようになっているからだ。
哲学は特に難解なものではないが、敢えて難解な言い回しや翻訳をすることである種の特権的な地位を獲得してきたが、その難解な言い回しを避けた英語の翻訳がアメリカでの哲学研究に多大な貢献をしたという事実がある。実際日本語訳の純粋理性批判は読めたものではない。

哲学とその周辺

誰もが哲学を最初に学ぶときにギリシャ哲学を学ぶ機会が多い。おそらくそれは大きなミステイクだ。なぜならギリシャ哲学とカント以降の哲学は全く別物だからだ。大きく分けて、ギリシャ哲学という金持ちの暇人がはじめた妄想と、キリスト教以降の神様を介した創作物語の哲学と、カント以降の科学と現実に即した哲学、ニーチェ以降のカウンター哲学みたいな感じで分けることができる。これらは全く違う代物で、同じ哲学などとはとても言えない。例えば歴史を学ぶときにその時代時代の事実を現代の解釈で学ぶことができるが、哲学はそうではない。逆にいうと哲学という考え方の原理を使って歴史を学ぶことができるが哲学という原理を使って哲学を学ぶというのは非常に難しい。というのも哲学を上から見下ろす上位互換の学問が存在しないからだ。そういう意味で現代の哲学的様式、つまりカント以降の人間が正しく認識できる範囲での考察というものを基準に哲学の歴史を眺めるとカント以前の哲学はほぼ人間の妄想といえる。それ以前は何の根拠もない妄想が哲学であったということだ。その妄想のいくつかはデモクレイトスの世界は「原子」で成り立っているという説のように宝くじみたいに当たったものもいくつかあったという話に過ぎない。現代は、誇大妄想というものが例え真実であってもそれは哲学にならない。それらの妄想は新興宗教の本山で見聞きしたり、真夜中の妄想で十分であるといった風で、我々が個々に持ち合わせる考え方や方針といったものである。しかしながらその妄想は哲学を形作る周辺の要素であるし、大切な取り巻きでもある。

哲学に昇華する事物

哲学の隣、もしくは哲学にかなり近い場所にある学問は少なからずある。医学、生理学、心理学、化学、物理学、数学、芸術、音楽、コンピューター化学、法学や倫理学などいつも哲学に隣接しているような学問がたくさんある。各分野の学問の具体的な手法や手続きを学びそれらが抽象化された段階で哲学に隣接する。つまり極度に抽象化された学問は自ずと哲学に昇華する。



2022.05.27